複合施設パルティ瀬戸
パルティ瀬戸の後ろ側にある尾張瀬戸駅。
かまがまばし 陶器製のモニュメント。
かまがま橋にある説明。
陶祖:加藤四郎左衛門影正
瀬戸には古くから加藤四郎左衛門影正(通称:藤四郎)による開窯説が伝えられています。
現在の定説では、藤四郎が貞応2年(1223)に永平寺の道元禅師のお供として宋の国(現在の中華人民共和国)に渡り6年もの間
陶器づくりについて修行しました。
日本に帰ってきた藤四郎は、陶器づくりに適した土を探して各地で試し焼きをしてましたが、なかなか見つかりませんでした。
しかし、仁治3年(1242)に瀬戸で陶土(陶器をつくるための土)を発見し、窯を造ったことが瀬戸焼の始まりと言われています。
藤四郎の作品として現在残っているのは「陶製狛犬」と「瓶子(お神酒つぼ)」と言われています。
文政7年(1824)に藤四郎の偉業をたたえ、お祀りする陶彦社が深川神社東隣に創建されました。
また陶祖公園には、江戸時代末期に造られた六角陶碑があります。六角陶碑は陶製の六角柱で、碑の側面には藤四郎の業績が記されており、碑の内部空洞には一字一石の法華経を浄書した石が詰められていると言われています。
毎年4月の第3土・日曜日には藤四郎の遺徳をしのび「陶祖まつり」が陶彦社と陶祖公園を中心に開催されます。
磁祖:加藤民吉
江戸時代の中ごろ、九州では、薄くて丈夫な磁器を生産していましたが、瀬戸ではまだ陶器しか作っていませんでした。
窯屋の二男として生まれた民吉は「一子相伝制(長男のみに陶業を継がせる)」という窯屋仲間の取り決めのために
家業を継げなかったので新田開発に従事していたところ、尾張藩熱田奉行:津金文左衛門の目に留まり、南京焼(染付磁器)と
呼ばれるやきものの研究を手伝いました。
やがて小さな作品ではあるものの染付磁器の製造に成功しますが、素地や釉薬などの問題点が多く、九州・肥前のような磁器を
焼くことができませんでした。
このため窯屋仲間等と相談の結果、文化元年(1804)に民吉は、天草東向寺の天中和尚(愛知郡菱野村出身)を頼って一人九州へ修行の旅に発ち、苦労と努力を重ね先進の磁器生産技術を学び、文化4年(1807)瀬戸に戻ってきました。
民吉の帰郷によって伝えられた丸窯や柞灰など肥前の技法と瀬戸の土による磁器製造の研究・開発のおかげで、瀬戸の染付磁器は
急速に進歩しました。
また陶業を営むことをできたのは長男戸主に限られていたものが、磁器づくりに関しては二男・三男でも開業できたことなどから
磁器生産は発展していきました。
こうした民吉の業績をたたえ、民吉は瀬戸の磁祖として窯神神社に祀られています。
また、毎年9月の第2土・日曜日には「せともの祭」がこのあたりを中心に市内各所で開催されます。
漢字にこのような説明には珍しくふりがながふってあります。
森友問題朝日新聞が、文書を書き換えたと報道し、毎日新聞がその証拠ともいえるものをだしてきて、
さあ大変。厳密には「文書が複数あった」ということだが、
いったい文書管理はどうなっているのだろう。
厚生労働省だって裁量労働制でいいかげんな文書を出してるし。
この国はこんなことで大丈夫なのだろうか。
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